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倉橋由美子の「世界の果ての泉」という話は「真の愛とは相手の外見を愛する事だけじゃなくて、相手の性格と正体などを愛する必要がある」と主張しているようだ。実際に書いた教訓は「真の愛とは醜いものを愛する事、つまり不可能という事」だけど、これはただ登場人物の行動を批判する事だと思う。綺麗な継子の主人公の感情が自分の命を支配させた。どのトラブルがあってもすぐに泣き出してしまい、回答を必死に探しているようになったのだ。例えば、一瞬でも考えないで、篩で泉の水を汲む方法を発見するために蛙と結婚すると賛成した。蛙は彼女の外見しか見ていなかったので、そんなに早く恋に落ちるという事はただの肉体的な魅力だろうと考えられる。それで、もしかして彼女は蛙を三年間愛して蛙が王子の体に戻したら、それは真の愛という訳ではないかもしれない。つまり、二人ともが適切に成熟していないのでー彼女は彼のお金が欲しくて、逆に彼は彼女の美しさが欲しいーどうしても二人の愛は不可能だそうだ。
加えに、倉橋は「真の愛とは自分を愛する事」だと暗示している。主人公の継母は彼女を嫉視しているから、機会がある毎に召使のように働かせた。継母は継子に自分の不備を投影しているようだ。継子と同じように、継母の感情が自分を支配しているが、その感情は憎みと羨ましさ。例えば、継子が蛙と婚約していると聞いた後で、継母は仕返しをするために「女の子というものは約束を守らなくちゃ」を繰り返したり、ケチなくせに新鮮なパンと牛乳を盛ったり、非常に優しい振りをしたりした。話の最後には、継母は自分の外見を認められないとして、永遠な美しさを求めて世界の果ての泉の水を飲んで蛙に変形してしまったのだ。例の水を飲む人間に罰が当たるので、自分を愛する事すら出来なったら、別の人を本当に愛しては無理だと考えられる。それで、真の愛とは醜いものを愛する事に限らず、自分と相手の正体を受け入れる事だそうだ